
北の富士の年収は?若い頃は夜の帝王だった!
「北の富士」――。その名を聞けば、多くの人がNHK大相撲中継での歯に衣着せぬ解説を思い浮かべるのではないでしょうか?
しかし、北の富士勝昭は、単なる解説者ではありません。
現役時代は第52代横綱にまで上り詰め、その実力と人気で土俵を沸かせた、まさに昭和の大横綱なのです。
今回は、そんな北の富士の現役時代の年収に迫りつつ、彼の知られざる一面、夜の帝王と呼ばれた若い頃のエピソードも紹介していきます。
さらに、引退後の活動や現在の生活にも触れ、波乱万丈な人生を辿ってきた彼の魅力に迫ります。

北の富士の偉大さは、ただの力士じゃなく、多面的な魅力にあふれているね。

そうね。現役時代の実績もさることながら、プライベートなエピソードも興味深いわ。
「北の富士さん「俺、29センチあるんだよ」 大関昇進秘話」
引用元: 朝日新聞
幼少期と相撲との出会い
北の富士勝昭は、1942年北海道旭川市に生まれました。
彼の少年時代は相撲ではなく、野球に夢中でした。地元の軟式野球チームで主力投手として活躍し、将来を嘱望されるほどの実力を持っていました。
しかし、中学時代に右肘を故障し、野球を断念せざるを得なくなります。
そんな彼の人生を大きく変えたのが、1954年の夏に故郷・留萌で行われた大相撲の巡業でした。
父の経営する料理店に立ち寄った横綱・千代の山から「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」と声をかけられたことがきっかけで、相撲の世界へ進むことを決意したのです。
この出会いがなければ、「北の富士」という大横綱は誕生しなかったかもしれません。

野球から相撲へ転向するなんて、運命を感じるね。

本当に。もし野球を続けていたら、全く違う人生になっていたかもしれないわ。
北の富士の現役時代
初土俵からスピード出世
1957年1月場所、15歳で出羽海部屋に入門し、初土俵を踏みます。
当初は「竹沢」という四股名で、前に出るだけの相撲で「香車」「ヤリイカ」などと呼ばれていました。
しかし、恵まれた体格と持ち前の運動神経で徐々に頭角を現し、1964年1月場所に幕内へ昇進。
スピードを活かした取り口で「現代っ子横綱」と呼ばれ、一躍人気力士の仲間入りを果たします。
\ #北の富士さん への感謝をこめて /
解説者として26年間
大相撲の楽しさを教えてくれた
北の富士さん✨たくさんの愛あるメッセージありがとうございました!💕https://t.co/WHia1s0UP6
NHKプラスの見逃しで
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たくさんの北の富士さんが現れてキュンです🫰#みんな大好き北の富士さん#北の富士さんが足りない pic.twitter.com/IK0wUnwinP— handmadeAMOS (@AmosHandmade) February 27, 2025
「【塚ちゃんの生涯一記者】北の富士さん、解説の原点は文化放送だった 龍虎さんから相方を舞の海さんに替えNHKで人気に」
引用元: サンスポ
大関昇進と九重部屋への移籍
1966年7月場所後には大関に昇進。
大関時代には、九重親方が出羽海部屋から独立する際、彼に付いていくか残留するかという大きな決断が迫られました。
当時の九重部屋は、まだ設立されたばかりで力士も少なく、決して恵まれた環境ではありませんでした。
それでも北の富士は、九重親方への恩義を感じ、新たな道を歩む決意を固めました。
これは、彼の力士人生における大きな転換期となりました。

昇進の決断は、並大抵のものではなかっただろうね。

ええ、厳しい環境の中でも信念を貫いた姿勢が素晴らしいわ。
横綱昇進と「北玉時代」
九重部屋に移籍後も、北の富士の勢いは止まりません。
1970年1月場所、ついに横綱昇進を果たします。
横綱在位中は7回の幕内最高優勝を果たし、ライバル玉の海と共に「北玉時代」を築き上げ、相撲界を大いに盛り上げました。
当時の北の富士の人気は絶大で、多くのファンから声援を浴びていました。

横綱昇進って、本当に夢のような瞬間だったんだろうね。

そうね。北の富士が築いた「北玉時代」は、相撲界の黄金期とも言えるわ。
試練と復活
しかし、順風満帆だった力士人生にも、度重なる怪我や不振という試練が訪れます。
1973年1月場所では、貴ノ花との一番で厳しい状況に立たされるなど、苦しい時期を過ごしました。
それでも北の富士は決して諦めず、持ち前の負けん気で怪我を克服し、見事復活を遂げます。

試練の中から立ち上がる姿は、本当に尊敬に値するね。

その復活劇があってこそ、今の北の富士があるんだと思うわ。
現役引退
1974年7月場所限りで現役を引退。
彼が残した功績は、多くの相撲ファンに感動と興奮を与えました。
項目 | 内容 |
---|---|
生涯戦歴 | 786勝427敗69休(105場所) |
幕内戦歴 | 592勝294敗62休(64場所) |
優勝 | 幕内最高優勝10回、十両優勝1回 |
三賞 | 殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回 |
金星 | 1個(大鵬1個) |
最高位 | 第52代横綱 |
愛称 | 現代っ子横綱、イレブン横綱、プレイボーイ横綱、夜の帝王 |
北の富士の年収は?
北の富士の現役時代の年収は、一体どれくらいだったのでしょうか?
残念ながら、当時の力士の給与体系は公表されていなかったため、正確な数字は不明です。
しかし、現在の力士の給与体系や北の富士の活躍ぶりから、年収を推測することは可能です。
現在の横綱の月給は約300万円、年収にすると約3,600万円となります。
それに加え、優勝賞金や三賞、懸賞金などが加算され、北の富士は横綱在位中に10回の優勝や懸賞金などで、年収が1億円以上に達していた可能性が高いと言われています。
若い頃は「夜の帝王」?
土俵の上では、強くて凛々しい横綱として活躍していた北の富士ですが、土俵を降りれば、「夜の帝王」や「プレイボーイ横綱」と呼ばれるほどのプレイボーイとしても知られていました。
休場中にキャバレーで歌を歌ったり、銀座のクラブに出入りしたりと、華やかな夜の世界を謳歌していたと伝えられています。
ある時、六本木のサパークラブで飲んでいた北の富士は、偶然にも人気俳優の石立鉄男と遭遇したというエピソードも残っています。
規律に縛られることなく自由奔放に生きた彼だからこそ、横綱という地位とプレイボーイという異色の顔が、彼の魅力を際立たせたのかもしれません。

若い頃の北の富士、夜の世界でも華やかだったって聞くと驚くね。

そうね。ただ、そんな裏側も彼の魅力の一部なのかもしれないわ。
引退後も活躍
後進の指導
1974年に現役を引退した北の富士は、年寄「井筒」を襲名し、後進の指導に当たりました。
井筒部屋の師匠として、多くの力士を育成し、相撲界の発展に貢献しました。
その後、九重部屋を継承し、千代の富士や北勝海という二人の横綱を育て上げた名伯楽としても知られています。
特に千代の富士は、軽量ながらも強靭な精神力と卓越した技で、昭和の大横綱として名を馳せました。
北の富士の指導力なくして、千代の富士の活躍はなかったと言えるでしょう。

後進への指導は、彼の豊富な経験が生きたものだね。

ええ、指導者としての情熱が伝わってくるわ。
NHK大相撲解説者
1998年に相撲協会を退職後は、NHK大相撲中継の解説者として活躍しました。
その独特の語り口と鋭い解説は、多くのファンを魅了し、お茶の間の人気者となりました。
現役時代のエピソードや、力士への愛情あふれるコメントは、相撲中継に欠かせない存在となりました。
「昭和の名横綱の功績称えて 旭川が生んだ北の富士展 – 旭川市総合庁舎」
引用元: liner.jp
まとめ
北の富士勝昭は、力士としての実力はもちろん、プレイボーイ、名伯楽、そして名解説者と、多彩な顔を持つ人物でした。
彼の魅力は、相撲ファンのみならず、多くの人々を惹きつけ続けています。
北の富士は、相撲界の伝統を守りながらも、現代的な感覚を取り入れた、まさに「現代っ子横綱」でした。
その生き方は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。