【激やせの真相は?】寺尾(元錣山親方)の若い頃を振り返る!
寺尾常史、元錣山親方。
彼は力士としてだけでなく、人間としても魅力的な人物でした。
若い頃から心臓が悪かったにもかかわらず、懸命に努力を重ね、関脇にまで上り詰めた力士時代。
引退後は、錣山部屋を創設し、後進の指導に情熱を注いだ親方時代。その波乱万丈な人生は、多くの人々に感動と勇気を与えました。

寺尾親方は、若い頃の苦労があってこその人間味が感じられるね。

そうね。心臓の病とも闘いながらも、努力を惜しまなかった姿勢に胸を打たれるわ。
「父と息子、丸い土俵と固い絆 母が急逝、19歳の新十両若碇は気合と根性、そして感謝(47NEWS)」
寺尾の訃報
2023年12月17日、元関脇・寺尾こと錣山親方が、うっ血性心不全のため60歳という若さでこの世を去りました。
あまりにも早い訃報に、相撲ファンのみならず、多くの人が驚きと悲しみに暮れました。
寺尾の若い頃を振り返る
今回は、寺尾の若い頃を振り返り、その激動の人生に迫ります。
力士時代の活躍はもちろん、病気との闘いや、親方としての顔、そして知られざるエピソードの数々をご紹介します。
相撲一家に生まれた運命、そして心の葛藤
寺尾こと福薗好文は、1963年2月2日、東京都墨田区に生まれました。
父は元関脇・鶴ヶ嶺、兄二人はそれぞれ元十両・鶴嶺山、元関脇・逆鉾という、まさに相撲一家。
しかし、寺尾自身は小・中学校時代は相撲に興味がなく、むしろバレーボールやマラソンに熱中していました。

家族が相撲一家っていうのは、重圧もあっただろうね。

ええ、でもそれが逆に寺尾親方の強さにつながったのかもしれないわ。
学校生活と心の葛藤
小学校時代には内向的な性格が災いし、いじめにあっていたこともあったと言います。
中学校で初めて心から信頼できる友人に巡り合い、自分の殻を破ることができたと語っています。
この経験が、後の力士人生における逆境を乗り越える力となったのかもしれません。
転機が訪れた高校時代
寺尾は相撲とは縁遠い生活を送っていましたが、高校は相撲の強豪校である安田学園高校へ進学。
バレーボール部やマラソン部、飛行隊研究部などを転々とし、明確な目標が見出せず葛藤を抱えていた時期でした。

高校生活で自分の進む道に迷いがあったんだね。

でも、そんな時期があったからこそ、後に相撲の道を選んだのかもしれませんね。
相撲部への入部と力士の道を志す
高校入学後、上級生の嶋津慎司(のち井筒部屋の幕下・紫筒山)に誘われ、相撲部に入部。
控え選手ながらも厳しい稽古に耐え、試合で勝つ喜びを知ることで、力士への道を志すようになりました。
兄の反対と決意
しかし、兄二人がすでに力士の道を歩んでいたため、特に長兄は次兄の入門に際して強硬に反対。
寺尾は角界入りへの想いをなかなか口に出せずにいました。
タイフーン旋風を巻き起こした力士時代
1979年7月場所、井筒部屋から初土俵を踏んだ寺尾。
入門当初は体重わずか85kgと小柄で、三段目昇進を目標にするほど、周囲からの期待は低かったそうです。
高校時代の同期の中でも一番弱く、自分自身に期待はしていなかったと言われています。
努力と成長
相撲教習所で、後に横綱となる北勝海が見せた激しい稽古風景に刺激を受けた寺尾は、並々ならぬ努力で体重を増やし、力をつけていきました。
新入幕と女性ファンの人気
1985年3月場所に新入幕を果たすと、甘いマスクと筋肉質な体つきで女性ファンの間でも一躍人気に。
「土俵の鉄人」の異名を持つ寺尾は、小柄ながらも回転の速い突っ張りやいなす技を武器に、土俵を駆け巡りました。
海外公演では、「タイフーン」の異名をとるほど、俊敏な動きで観客を魅了しました。
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病魔との闘い、そして親方へ
華々しい活躍の裏で、寺尾は心臓の病に悩まされていました。
若い頃から心臓が悪かったにもかかわらず、普段の体重が114kgのところ、場所前になると毎朝無理やりサンドイッチを食べて120kg~122kgまで増量。
本場所終了後は、心臓への負担を考慮して平常体重に戻していたとのことです。
引退と親方時代
2002年9月場所を最後に現役を引退。
年寄・錣山を襲名し、井筒部屋の部屋付き親方を経て、2004年1月に錣山部屋を創設しました。
現役時代の人気力士が率いる部屋ということで、多くの弟子が集まり、部屋は活気に満ち溢れていました。
惜しまれつつ、この世を去る
晩年はうっ血性心不全を患い、闘病生活を送っていた寺尾。
2023年12月17日、帰らぬ人となりました。
寺尾の葬儀と後の影響
彼の死は相撲界に大きな衝撃を与え、多くの弟子や関係者が追悼の意を表しました。
錣山部屋は、部屋付き親方の19代立田川(元小結・豊真将)が師匠代行として翌2024年1月場所まで指揮した後、2024年2月23日付で21代錣山を襲名し、正式に部屋を継承しました。
寺尾が残したもの
寺尾は、力士として、親方として、多くの人に愛され尊敬される存在でした。
小柄ながらも、持ち前の負けん気と努力で、数々の名勝負を繰り広げ、ファンを魅了しました。
思い出のエピソード
日刊スポーツ元相撲担当の井筒靖明氏は、寺尾との忘れられないエピソードを語っています。
日刊スポーツ入社1年目の1987年1月、井筒部屋へ取材に出掛けた際、入口と間違えて部屋の敷地内の扉を開けてしまい、寺尾に怒声を浴びせられたそうです。
しかし、名前を伝えると「えっ、井筒って本名なの?」と寺尾の表情が一気に和らいだという、普段は寡黙な寺尾のユニークな一面が垣間見えるエピソードです。
まとめ
寺尾常史、元錣山親方は、力士としてだけでなく、人間としても魅力的な人物でした。
若い頃から心臓の病に苦しみながらも、懸命に努力し、関脇にまで上り詰めた力士時代。
引退後は錣山部屋を創設し、後進の指導に情熱を注いだ親方時代。その波乱万丈な人生は、多くの人々に感動と勇気を与えました。
寺尾が残した数々の名勝負や、温かい人柄は、今後も語り継がれていくことでしょう。